「青春の弁証法」さんは「弁証法試論」(2003年)を読み、そのなかから特に中埜肇『弁証法』に影響を受け、弁証法の理解を深められていった。私は2009年に〈「オイラーの公式と複合論」への案内〉を投稿したが、この記事と「対立物の統一」(2005年)にコメントが付いた。これが関わりの始まりになった。
「複合論」は私が提起する新しい弁証法の理論だが、オイラーの公式の成立に「弁証法」を読み取るのは間違っているという観点から疑問を投げかけられた。2つの「論理的なもの」の選択は「対立」関係にないこと、その混成・統一は「対立物の統一」ではないという主張だった。
「白秋の弁証法」というのは「青春の弁証法」の理解を揶揄して名付けたものだが、ここでは私の弁証法(複合論、ひらがな弁証法)の符牒として使う。
まず、
〈「オイラーの公式と複合論」への案内〉の全文と、2つのコメントを取り上げる。
「オイラーの公式と複合論」への案内(2009-02-01)
オイラーの公式は、数学で最も美しい式といわれている。たんに美しいだけでなく、実用的にもすぐれている。それは、異なる種類の二つの関数、指数関数と三角関数を結びつけるもので、次のような式で表される。
eix = cos x+i sin x
ここの x に、π を代入して変形すると、起源がまったく異なる e (自然対数の底)と i (虚数単位)と π (円周率)と 1 (乗法の単位元)と 0 (加法の単位元)とが、次のような関係になっていることがわかり、感動する。
eiπ+1=0
遠山啓はオイラーの公式を、太平洋と大西洋を結ぶ「パナマ運河」と形容していた。また、吉田武は「虚」と「実」、「円」と「三角」を結ぶ「不思議の環」と形容した。ファインマンは「宝石」とよんでいる。
この公式は、18世紀にオイラーが導びいたものである。ふつうの教科書では、この公式は、指数関数 eix ・三角関数 cos x と sin x のマクローリン展開を比較することによって、説明されている。しかし、これは、オイラーの発想とは違っている。
志賀浩二は『無限のなかの数学』において、「オイラーは、円のn等分を極限まで追っていくことを、虚数の世界から眺めたのです」とオイラーの発想を特徴づけていた。
わたしは志賀浩二の指摘を少しずらしたところにオイラーの発想を見るべきではないかと思った。というのは、志賀の指摘では、「極限」が主となり、「虚数」が従のような印象をもったからである。
「極限」と「虚数」をともに主従の関係として見ること、「極限」と「虚数」を同等に扱うことによって、オイラーに近づけるのではないか。 「極限」と「虚数」の複合である。
オイラーが結びつける2つの「論理的なもの」。一つは、虚数単位が入った形でのn倍角の公式である。もう一つは、自然対数の底の極限による定義式である。前者には、虚数はあるが極限はない。後者には、極限はあるが虚数はない。
オイラーはこの2つを混成する。一方で、n倍角の公式に極限が導入される(n→∞)。他方で、指数に虚数が導入される(ex→eix)。混成されることによって2つとも「極限」と「虚数」の形を整えるのである。混成モメントの形成である。
志賀浩二は次のように述べている。
そうすること(n倍角の公式を変形し、nをかぎりなく大きくすること――引用者注)により等分点を極限まで追いつめ、円弧の長さと半弦の長さの違いなど霧のなかに消えてしまうような究極の場所にオイラーははじめて立つことができたのです。その場所でそれまでだれも予想したことのなかった夢のような一つの公式を導いたのです。それがオイラーの公式でした。
志賀が指摘する「究極の場所」は、わたしにとっては「混成モメント」が形成された場所である。
指数関数と三角関数という異なった2つの関数を結びつけるオイラーの発想は複合論で把握できるのではないだろうか。
以前の稿を少し改めたので、案内する。
オイラーの公式と複合論
コメント1(2010-06-17)
はじめまして。オイラーの公式に対する実に深い洞察を興味深く拝見いたしました。
今後とも、喜一郎氏のブログで勉強させていただきたいと願いつつも、一つだけ問いを呈することを許して下さい。
私も喜一郎氏の見解の多くに共感するもので、マルクス主義でいうところの「非敵対的矛盾」を矛盾と呼ぶことは正しくないと考えます。と同時に、喜一郎氏が弁証法を「対立物の統一」と規定している、その「対立物」という部分を今しばらく確認しておきたいのです。この場合の
「異なる指数関数と三角関数が結ばれているのですから、「オイラーの公式」の形成過程は、認識における対立物の統一の特殊な例といえると思います。それは、わたしが主張している弁証法の構造をもっていると考えられます。わたしは、オイラーの発想を複合論によって把握できるのではないかと考えました。」
における「異なるもの、異なる視点・観点、異なる起源 etc.」といった事柄は「対立物」なのでしょうか?「違う」ということが即ち「対立」だとは考えられません。私の俄か知識では弁証法を「対立物の統一」だと規定したのはレーニンだと聞いた覚えがありますが、ソクラテスの対話における弁証法はシバシバ「背理法、帰謬法」とも呼ばれています。「背理=アンチテーゼ」を提出して議論(対話)を深めていくことと、異なる視点からなる論述を複合していくこととは区別されるべき事柄では無いでしょうか?当然に、落下と前進という2力の合力として捉えられる楕円は「複合」ではあっても「背理、帰謬」ではありません。同時に、「異なるものによる複合、合成」は古代ギリシャ的意味での弁証法では無いように思います。
ヘーゲル弁証法から古代ギリシャへの回帰を提唱し、「複合論」を弁証法の核心に据えようとされる喜一郎氏の単なる発想法ならぬ「弁証法」へのコダワリとは、どこから来るのか教えていただけまいか?元々がマルクス思想に影響を受けた御仁なのでしょうか?
コメント2(2010-06-19)
知的創造性に富んだ試みは如何なる分野であっても尊いと思うのですが、こと「弁証法」に限っては「弁証法とは何か?」という概念に対する理解が必要に思われます。というのも、弁証法というのは字義通り「問答による証明法」であり、その核心部分は「認識(理解)することであり、真理と誤謬とを区別していく方法」だと思うからです。その意味で、弁証法は認識論と密接に関わるのだと思います。
それに対してケストラーのバイソシエーションというのは、似たように2つの論述(概念)を合成して新たな概念を生み出していくもののようですが、それは創造性ある知的活動ではあっても、真理探究の方法ではありません。真理と誤謬を弁別するというよりも、創造的な知的技術だと思います。
ですから、弁証法において合一されるのは反論・批判であって、まったく別種の論述では無いと思います。三角形の証明問題に方形や円を用いたとしても、それは異なるものを統一したと言うことは可能ですが、対立物を統一したとは言えぬと思います。
したがって、ここで述べられているようなケストラーのバイソシエーションといった類の問題は、「弁証法」という古めかしい言葉で表現されるべきものではなく、「創発」という現代用語で表現されるべきだと思います。